月2,000件の書類をAIに任せたら、患者さんと向き合う時間が増えた――在宅医療クリニックの事務改革
朝、出勤してパソコンを立ち上げる前に、まずFAXの受信トレイを確認する。診療情報提供書、検査結果、訪問看護報告書。種類ごとに仕分けて、患者名を確認して、電子カルテに登録する。終わったと思ったら、今度は医師から「この患者さんの提供書、今日中にお願い」と声がかかる。
在宅医療クリニックの医療事務として働いたことがある人なら、この光景に心当たりがあるはずだ。
2026年3月、福岡市の在宅医療クリニック「すずらん会たろうクリニック」が、AIツール「Tukusi AI」の導入による業務改革の成果を公表した。月2,000件を超える診療情報提供書の下書き作成、月600件の訪問看護指示書の自動化、毎日のFAX仕分けの自動処理。数字を見るだけで、どれほどの作業量が動いたかがわかる。
この記事では、たろうクリニックの事例をもとに、在宅医療の書類業務がAIでどう変わるのか、そしてAIに任せられること・人間がやるべきことの線引きを具体的に見ていく。
在宅医療はなぜ「書類の山」になるのか
在宅医療クリニックの事務業務が膨大になる理由は、情報のやりとりが多方向に発生する構造にある。
病院であれば、患者さんは来院し、院内で検査し、院内で診察を受ける。情報は院内で完結しやすい。しかし在宅医療では、患者さんの自宅、訪問看護ステーション、薬局、検査機関、介護事業所、ケアマネジャーなど、関係者が地域に散らばっている。
そのやりとりの多くが、いまだにFAXと紙で動いている。
- 検査機関から届く検査結果のFAX
- 訪問看護ステーションから届く看護計画書・報告書
- 連携先の医療機関へ送る診療情報提供書
- 訪問看護師への訪問看護指示書
- 外部からの新規患者の問い合わせ(FAXやフォーム経由)
これらの書類は毎日、絶え間なく届き、発信される。1件1件は単純な作業でも、積み重なると膨大な量になる。たろうクリニックの場合、診療情報提供書だけで月2,000件を超えていた。
さらに厄介なのは、情報のフォーマットがバラバラなことだ。FAXの書式は送り手によって異なり、手書きの場合もある。音声での申し送り、写真で送られてくるメモ。電子カルテがあっても、入り口の情報が非構造的なままでは、結局は人間が読み取って手入力することになる。
この「紙・FAX・音声が混在する情報カオス」が、在宅医療の事務負担を構造的に重くしている原因だ。
月2,000件の書類がAIで変わった
すずらん会たろうクリニックは2024年からTukusi AIの導入を開始し、小さな業務から試しながら徐々に対象を広げていった。医師、事務職など複数の職種が参加し、現場のフィードバックを繰り返しながらの導入だった。
では、具体的に何が変わったのか。業務ごとに見ていこう。
FAXの自動仕分け
毎朝の仕分け作業が大きく変わった。届いたFAXをAIが読み取り、「診療情報提供書」「検査結果」「訪問看護報告書」といった書類の種類を自動で判別する。同時に、書類に記載された患者名や医師名も抽出する。
検査結果の仕分けと通知にかかっていた1日あたり約30分の作業が、自動処理に置き換わった。
診療情報提供書の下書き作成
最も件数が多い書類がこれだ。月2,000件を超える診療情報提供書について、AIが電子カルテの情報から必要なデータを抽出し、定型フォーマットに転記して下書きを作成する。宛先の特定からFAX送信まで、一連の流れが自動化された。
事務スタッフの仕事は「ゼロから書く」から「AIの下書きを確認して送る」に変わった。
訪問看護指示書の自動化
訪問看護師に対する指示書も、月約600件の下書き作成と送信フローが自動化された。カルテ情報に基づいてAIが下書きを生成し、確認後に送信する流れだ。
スキャン書類の自動整理
訪問看護ステーションから届く計画書や報告書は、スキャンした後にAIが患者を特定し、電子カルテに自動保存する。月約670件の書類が対象になっている。
診療記録の下書き生成
医師向けの機能として、診察中の会話録音や手書きメモから、AIが診療記録のテキストを自動整形する機能も導入された。医師の約3割がこの機能を利用している。
栄養指導の場面でも、音声やメモの写真から初回アセスメントやモニタリング記録の下書きが自動生成される。
- FAX受信
- 手作業で仕分け
- 患者名を目視確認
- 電子カルテに手入力
- 書類を手作業で作成
- FAX送信
- FAX受信
- AIが種別判定・患者名抽出
- カルテに自動登録
- AIが下書き作成
- スタッフが確認
- 自動送信
AIがやること、人間がやること
ここで大事なのは、AIが「すべてを自動でやっている」わけではないということだ。
たろうクリニックの事例を見ると、AIの役割は明確に限定されている。
つまりAIは「読む」「分ける」「転記する」「下書きする」という定型的な処理を担い、人間は「確認する」「判断する」「対話する」という非定型の仕事に集中する。
Tukusi AIの仕様として、入力データをAIの学習に利用しない設計になっている点も重要だ。医療情報を扱う以上、「AIに患者データを学習されるのでは」という懸念は当然ある。過去の記録をもとに下書きを生成する仕組みだが、最終確認は必ず専門職が行う。AIは下書きを出すまでが役割で、承認は人間の手に委ねられている。
導入の現実――課題と向き合い方
たろうクリニックの事例は成果が目立つが、課題もオープンに語られている。
最大の課題は、AIツールの利用が個人の判断に委ねられていることだ。ある医師は積極的に音声からの記録下書きを使い、別の医師はまったく使わない。利用率に「約3割」という数字が出ているのは、組織全体としての標準化がまだ途上であることを示している。
もうひとつの課題は、利用範囲の拡大に伴うマネジメントの難しさだ。どの業務にどこまでAIを使っているか、全体像を把握することが難しくなっている。
しかし、たろうクリニックのアプローチには学べる点がある。2024年の導入初期から「スモールスタート」を徹底し、小さな業務で成功体験を積んでから対象を広げていった。最初から全業務を一気にAI化しようとしたわけではない。
これは他のクリニックにとっても現実的なヒントだ。まずはFAXの仕分けや検査結果の通知など、比較的シンプルな業務から始める。効果を実感してから、書類の下書き生成や記録の自動化に範囲を広げていく。いきなり完璧を目指す必要はない。
まとめ:書類から解放された時間は、どこへ行くのか
月2,000件の診療情報提供書。月600件の訪問看護指示書。月670件の看護計画書・報告書。毎日30分のFAX仕分け。
これらの書類業務にかかっていた時間が短縮されたとき、その時間はどこへ行くのか。
たろうクリニックの事例が示しているのは、記録内容の充実化とスタッフが患者対応に使える時間の増加だ。書類を「作る」作業が減った分、書類の「中身」を充実させる余裕が生まれ、患者さんや連携先とのコミュニケーションに時間を使えるようになっている。
在宅医療の本質は、患者さんの生活の場に足を運び、顔を見て、声を聴くことにある。診察、判断、対話。これらは人間にしかできない仕事であり、AIがどれだけ進化しても変わらない。
AIが変えるのは、その前後にある書類の時間だ。FAXを仕分ける時間、カルテに転記する時間、下書きを書く時間。その時間が患者さんのための時間に変わるなら、在宅医療の現場にとってAIは頼れる事務パートナーになりうる。
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出典・参考:
- すずらん会たろうクリニックがTukusi AIで在宅医療のワークフローを刷新(PR TIMES、2026年3月17日)
- 職業情報提供サイト(日本版O-NET)(厚生労働省)のデータを加工して作成